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「道元思想からみた現代社会へのアプローチ」
- 海外留学僧派遣の意義 -


黒田 武志

  帯電話片手に街を闊歩する若者たち。 「いかがでしょう、ぜひお読みなさい」と道元禅師(以下、禅師の敬称を略す)の代表的著書『正法眼蔵』の一部分でも手渡したとして、受け取りはしても見なかったり、或いはパラッと見ただけで、ナァーんだ仏教書=難しい書物・面白くないモノと、まったく無視することでしょう。既に先入観や固定観念を持ち、いささかの興味さえも見せないのではないでしょうか。
  急に仏教とか『正法眼蔵』とか言っても、受け取ってくれないし理解されない。今の生活とは、あまりにかけ離れていて関係がないと思われている。長い間に亘り、日本人が受け継いできた伝統とか良い習慣というものは、仏教による影響が大きいにもかかわらず、どうも日常生活と繋がらない。仏教の精神には、現代人が忘れてしまっている人と人との心の触れ合いや生き方など、知恵の活用法が満載されているにもかかわらず、全く日常生活の中に、それを受け入れる準備がない。人は自分に価値がないと思えば受け取らない。
  『正法眼蔵』九五巻は、古来より難解といわれ、そして膨大な書。とても一般の人に読みこなせるものではない。専門用語の羅列・内容の高度さ、それを解説する書もまた仏教語によって書かれている。それだけによりいっそう読みにくいイメージが定着している。
 しかしどんなに難解であっても、私は仏教を出来るだけ専門用語を使わず考え語ってゆきたい。そして、仏教は難解だと思われていることを払拭したい。
 私にとってありがたかったことは、生まれたところが仏教寺院(曹洞宗)だったということ。寺院に生を受け、好むと好まざるとに関わらず、幼い頃から仏の道に携わる父や母の環境の中で多くの兄弟たちに囲まれ育ってきたこと。従って未熟な私の青春時代には、いつとはなしに教え、導かれて、網のごとく道元禅師の教えや心に触れ、異なる年代、世代の理解を得る機会を持つことが出来た。これは仏縁のしからしむるところ。禅の教えを禅堂の中だけで解釈するのではなく、その教えを日常生活の中で生かしてゆく。大事なことは、どこに行くかという目的地ではなく、その日その日、毎日毎日の生活や生き方、いわゆる一歩一歩、一日一日こそが大事なことであって、それがわかってこなければ、道元の心を後世に残すことは出来ないのではないかと強く感じるようになってきたように思う。
  道元が残し伝えたかった、人間の根源的な在り方、本心、真心の真実と真理hこれを学び、行じ、後世に残せる若者づくり。人材なくして私の道はないと、何時しかそれが私の信念となり、誓願となり目標となったように思う。
  いま大概の日本人が陥っている誤った宗教観。いわゆる新興宗教の盛況、ご利益信仰の否定、科学の進歩さえあれば宗教・信仰はいらないと、公言する多くの人たち。しかしひとたび自分の利益や災難に関わると、簡単に占いやまじないに手を出す現実。仏教こそは、智慧の宗教といわれている。仏教について関心を持たない若者に少しでも興味の心を芽生えさせ、いくらかでもこのすばらしい道元の人間学に触れるために、『修証義』の教えに迫ってみたいと思います。

人間本来の美しい生き方「修証義」
  釈尊は、いろいろな機会に多くの人と接し、教えを説いてこられたお方です。
  仏教の真理は一つ、しかしそれを説くには「八万四千の法門」があるということ。従ってその入り口・出口はたくさんあるということになります。原始仏教といわれる初期の時代は、主として言葉による教えでした。しかし、言葉というものは、歴史を重ねゆく間にその理解と解釈と伝達の仕方が正当の仏法からずれてしまうこともあったのです。或いは、まったく別のものになってしまったことも否めません。釈尊は、八万四千の法門の他にまったく異質な、言葉によらない教えというものがあることも伝えられました。
  それを伝えるためのエピソード。一輪の花を、ただひねって見せるというのがあります。それを見ていた弟子の摩訶迦葉は、“微笑”によって、言葉を使わず釈尊の教えが解ったと伝えました。これが“拈華微笑”と呼ばれる禅の公案です。
  この、言葉によらない異次元の法門が、仏心・本心・真心に目覚めさせる「行」、これが禅であり正法眼蔵なのです。正法眼蔵、しかし、実に、難解、難入、簡単に理解できるものではない。しかし道元は、『正法眼蔵』によって人々に本当の仏教とは何たるかを解き、人が仏となり全宇宙のあらゆる存在が光り輝く仏の世界になることを、誰にでも理解しやすいように努めた。
  また、道元は、仏法と人間の関わりについて「仏法は、人の知るべきにあらず、ひとり仏にさとらるる故に、唯仏与仏、乃能究尽といふ」(「唯仏与仏」)とも云っておられる。私もいまだ隅から隅まで読み終えているとはいえません。道元が著した言葉による八万四千の教えを、「正法蔵」といいます。正法とは釈尊の教えであり、それは文字で書かれた八万四千の経典となり “蔵”に納められ、のち仏弟子たちによって受け継がれ守られてきましたのです。何時どんな時代にでも、その経典を正しく理解し読み取る心と智慧が必要なのです。その直観的な心が “眼”なのです。
  道元は「行」の人であった事は勿論ですが、また「文」の人でもあった。いわゆる正法眼蔵h正法を正しく伝えることの出来る直観的な智慧、何時の時代にも法と禅を以って、それをいかなる場所でも、いかなる人にも、共通・共有させることの真髄を教えられたのが道元です。
  「心から心に伝える」hむずかしいことに思えるかもしれません。しかし、私たちは日常生活の中で、これをかなり多く経験しているはずです。誰もが人を思いやることができるということは、私たちが常に心の中にやさしさを持っているからです。智慧と心のやさしさを慈悲心といいます。この二つの働きにより以心伝心、即ちその人の持つ波長がそのまま人に伝わるといったらいいのでしょうか。たとえば美しい自然にふれ、感動したり、赤子の微笑に誰でも幸せいっぱいの気持ちにさせていただくということは、難解な言葉や知識を越えて得ることが出来る静かな安らぎの境地、これこそは、仏教の教える智慧と心の働きなのです。言葉や文字を異にする間柄でも、あっという間に美しい関係を共有できる不思議な力なのです。
  『正法眼蔵』を、そんなふうに考えてみてみると、心暖かくなる教えが全体に満たされているのが解ります。さて、『正法眼蔵』という教えの中から選びまとめられた『修証義』という経典は、難解な教えをかみ砕き解りやすく教えてくれているのです。時代がどんなに変化しようと変わることのない人間本来の「美しい生き方」を示してくれる大切な経典であります。そして、その内容を体得できたとき、それを全世界の人の心に浸透させることができたとき、この世から争い・憎しみという言葉は消えてなくなることでしょう。
  さて、『修証義』は五章から成り立っていますが、その第四章・第五章には次のようなことが説かれています。
  第四章 発願利生(苦しみ悩みの世界に身を捧げると誓い、誓願を起こして、世の人の為奉仕する)
  「自分のことはさておいて、他の人のために尽くすという願いを起こし、これを完成させようと努力することは、どんな人にとっても大切なことです。たとえその姿かたちは、みすぼらしくとも、この心を起こすと、すでに生きとし生けるものの指導者となります。たとえ七歳の幼い女の子であっても、ただちに仏の道を学ぼうとするすべての人の指導者であり、生きとし生けるものに慈しみ深い父なのです。だから、急いでこの願いを起こすべきです。
  生きとし生けるものに幸せを与えるには、四つの真実の智慧を、自分の願いとしなければなりません。
  四つの真実の智慧とは 一.布施hむさぼらないで、施すこと。真心から与えること。 二.愛語h生きとし生けるものに、まず、慈しみ、愛する心を起こし、やさしい心のこもった言葉をかけること。親が子に言葉をかけるときのように。 三.利行h自分も他人もともに生きること。立場の違う人さまざまな人が自分の回りにはいるでしょう。どんなときでも相手が利することに心を遣うということ。いつでも自分が生かされているということに気づき、感謝して、その方々が得をするよう、幸せになるように思いめぐらして生きること。 四.同事hあらゆるものと仲良く調和して生きていくこと。海があらゆる河の水を拒まないで受け入れるのは、すなわち、自分と他人を区別していないということです。だから、よく水が集まって海となるのです。
  およそ仏道を求める心とその行いと願いは、このような道理があることを、静かに考えてみなければいけません。生きとし生けるものを残らず救う、この功徳を礼拝し、敬わなければなりません」
  この、第四章 “発願利生”の教えは、とくに、私の心を大きく揺さぶり発憤させ、私の生き方の大きな指針となっているものです。若き日のさまざまな体験的修行と日々の坐禅と生活を経て、終極に私の大誓願となり、それを行ってきた諸事業の根本に、この発願利生の教えがあるのです。
  第五章 行事報恩 (仏の生活をして、仏の恩に報いる)
  「真理に生きていくことはたやすいことではない。しかし、この人間界に生まれ、仏道を求める心を起こす機会が与えられたのは釈尊や多くの祖師たちのお導きのおかげです。このご恩を知っていながら、どうしてご恩に報いることをしないでいられましょうか。ご恩に報いるためには、まず、何よりも毎日の生活を大切に、ていねいに、仏さまのいのちとしての生活を営むことです。光陰は矢よりもはやく、いのちは露よりもろい。だからこそ、この一日一日の自分が、かけがえのない尊い仏さまのいのちであり、体なのです。毎日を、自己のありのままのいのち精一杯に生き、仏としての修行生活ができる自分自身を自ら大事にし尊敬しなければなりません。そして、他のいのちを大切に生かし続けるところにこそ、釈尊と相通じる仏法の真髄h坐禅の姿と心で生きていく姿勢h即身是仏という仏になるのです。そういう仏とはいったい誰のことかと、細やかに心をこめて参究すべきです。それこそがまさしく、仏のご恩に報いることになるでしょう」。
  人はどのようにして仏になるのか。つまり、どのような人(菩薩)のことを仏というのか。それを教えてくださっているのが、『修証義』の大事なところでもあります。

世界的視野を持つ若き仏教徒を育てたい
  私は僧侶である兄の助言もあって、仏教系の駒澤大学・大学院を経て、曹洞宗大本山總持寺や永平寺に修行。しかしながら、その頃の私は、『修証義』の奥深い哲学を自分のものとすることはできなかった。途中体を壊し下山するありさまでした。従って『行』に惨敗した。しかし、仏さまは、未熟な私でも、仏道を目指した者として決してほったらかしにはしませんでした。帰路、列車を間違えて乗るという偶然が不思議に重なった。あげくの果て、全国托鉢行脚という、考えもしなかった方向に導かれ、貴重な体験を得ることができたのです。何カ月も懐に金もなく、来る日も野宿を繰り返し唯歩く。晴天ばかりではない、雨に降られ、風にさらされ、雪に凍え、托鉢しても供養は得られず、或るときは玄関払い、或るときは冷たくされる。托鉢修行者が犯してはならない携帯の涅槃金(自分の葬儀代)にまで手をつけてしまうほどの生活でした。しかし、その体験の中から私は、はじめて「いのちの尊さ」そして僧侶としての存在とあり方。その尊さと使命を実感させていただくことができたのです。
  唯、今日を生きることが精一杯。明日のいのちもわからないほど身も心もボロボロになったとき、ふっと、自分が僧侶だということ、我を忘れ自分がなすべきことはなにか、それは人さまのために般若心経を唱えることではないのか、これこそ仏道の修行だと気づいたとき、同じように家々の軒下に立ち、精一杯の心経を唱えて歩くようになっていた。形は同じでもこれまでとは、心とその在り方が違っていた。道元の「全機」の章にある「生は来にあらず、生は去にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり、知るべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」と、まさしく、生は未来にも過去にもなく、現在『ここに在る』を自覚し『いまここ』に立っていることの認識が私を救った。
  やがて私の心も満ち足り、新しい自分、新しい心に目覚め、有難いと心底思えるようになっていた。今『ここに生きている』ものにとっては、不平・不満・愚痴などまったくない。これこそが身心脱落だったのだろうか。それからのご喜捨のありがたかったこと。真に仏に生かされている自分を実感することとなった。こんなにも幸せな気持ちになれるのかと思ったとき、それまでざんざん降りだった雨も上がり、雲の隙間からカーッと陽の光。そんな得難い体験も実際に味わった。
  全国托鉢行脚を終え新しい気持ち心でゼロからの出発。そして決意。誰にすすめられた訳でもなく、改めて自分の意志で、大本山總持寺の僧堂生活に入り連日連夜の厳しい修行に専念。その後、期するところあり、南方上座部仏教を学ぶため、タイ、インドへと留学修行した。タイのワットパクナムでは二二七の戒律を守る生活に身を委ね、魂が浄められていくような刻々日々。当時、ただ漠然と安逸を貪り過ごしている日本の若者と、一方仏教を深く信仰し戒律に生きるタイの若者たちと比べ、そのあまりに違う生き方に驚きもしました。
  三〇歳になったとき渡米。兄博雄が開いていたロスの禅センターに身を寄せ、欧米人とともに参禅・修行する日々を送ることになった。
  多様に枝分かれしてしまった日本の仏教、また釈尊の真の教えを学び、行じ、伝えているアジアの仏教国、さらには、キリスト教を中心とした西欧の国々を渡り歩き、その地の文化や伝統、それらの国の空気を肌で感じながら、あらゆる国のあらゆる修行に専念することができた。
  或るとき、一つの光・答えが見えてきたような気がしたのです。
  国籍も、年齢も、性別も、職業もまったく関係なく、宗教や宗派に全くとらわれることはない。互いが理解し合い、調和することができたら、どれほど幸せな世の中になることかと。これが動機、目的となり発心。これこそは釈尊の云われる宇宙生命の腕の中ということではないのか、また道元の仏法に通ずるものではないのかと。私は、生きとし生けるものすべてを救い、幸せな世界をつくることが、美しい海になるということではないだろうか、等々。釈尊の御教え、つまり、仏教の原点。それを伝えることが、今の私の生きる道なのだ、と。
  第四章に示された「発願利生」への実践へと導かれ、さらには言葉や習慣、国々の文化をそれぞれ理解し合い、民族を、国家を、宗教を超えて最終的に心の共通点を見つけ出していくというプロセス、まさしく地球を一つにすることこそ宗教家の役割なのだと、その実現には何としても、まずグローバルな視野を持つ若者、人材を育てる必要があると!
  さらに思いは膨らんで、アメリカから帰国後、心に抱き続けていた拠点づくり。これは尊い仏縁。ついに横浜善光寺開創に至る。
  横浜善光寺開創後一五周年を迎えた時。永年の思いを具体的に実行することが急務だと感じ、『横浜善光寺留学僧育英会』を設立。
  この千年紀(ミレニアム)、まさに宇宙時代、人の動きも情報も時間的にも空間的にも距離は著しく短縮され、あたかも世界は一国の観を呈しております。一方人類はかつてない不安と絶望。そして人類の危機的状態。これは、道元が生きた混迷の時代・人間の尊厳が失いかけた時代ともよく似ています。
  いまこそ、独自の境地を開き、自我の束縛から自己を解き放ち、あらゆる欲望や我執から開放され、真の「我」を現出せねばならぬ。これこそ道元の考えておられた「天地の生命と自己の生命とは一体化できる」という理に契ってくる。「ひとすじの正しい仏法。人は全宇宙と一体になる」と説いた道元、この仏法こそは、時代を越え永遠の真実として、後世に残さねばなりません。しかしながら日本仏教界の現状は、いまだ世界の大勢に即応し、教化の実をあげる態勢にはない。そこで私は、海外生活を通し広く学び世界に活眼を開く人材育成こそは最重要課題として位置付け、その重要性を痛感したのでした。

悲劇のない未来へ向かって
  いよいよ海外に留学僧を派遣し、また海外からの留学僧を受け入れるという大事業。「世界平和に寄与する」という大誓願に対し、「金も財産もない一介の寺」、いかにも力が小さすぎる。当然にして一介の住職にそんなことができるわけがないとご心配してくださる声も設立当初にはありました。しかし、私の信念は、『修証義』第四章の発願利生、長年の禅生活の中で体得した「信ずれば必ず花開く」という確信、この決意は微動だにもゆらぐことはありませんでした。
  おかげさまで、多くの方々のご援助・ご協力を得て、一歩一歩着実に派遣・受け入れが活発化し、一六年たった今日では、その数のべ九六名。関係国一九カ国〈一地域〉、派遣国は一三ヶ国(アメリカ・タイ・インド・スリランカ・イギリス・フランス・イタリア・オランダ・韓国・カンボジア・ドイツ・スイス・オーストリアなど)。受入国九ヶ国〈一地域〉(アメリカ・スリランカ・韓国・中国・フランス・バングラディシュ・日本・台湾・ポーランド・ベトナムなど)となり、情熱ある若き僧侶たちが、仏法のためなら孔子の教える「身を殺して仁を為す」の気概で、世界各国の修行に取り組みながら現在に至っています。
  彼らが、自分の国へ果して何を持ち帰って行くのか、また海外から何を日本へ持ち帰り、どんな行動を起こしてくれるのか、まだまだ未知数。願わくば、道元思想を正しく伝導できる国際的宗教者となってくれることを私は堅く信じている。
  成るか成らぬか、本当のところわかりません。しかしやっている限り、続けている限り可能性はあります。やがてのちの世界に、百花爛漫仏法の泉を沸かせ、『修証義』でいう “露ほどもろい命”であっても一隅を照らす時がくるかもしれないと思うと、その期待に胸が熱くなります。
  九九年五月、私は国際的慈善団体「サラナンダ財団(スリランカで長年にわたり、教育・文化・宗教活動を展開した高僧、ウドゥヌワラ・サラナンダセロの創設)」より、国際部門の栄誉賞と称号を賜りました。 “仏教を学ぶ留学生を支援する育英事業を高く評価する”との理由であり、スリランカという伝統ある仏教の国から評価され国際的に認知されたということは、今後の育英会・派遣・受け入れに大きな力を得たと思っています。
  育英生も今年で第17回生を迎えます。第1回より彼らには体験と勉学、その成果について論文として提出していただいております。これらに共通するものは、「人間、心の持ち方で生き方が変えられる。限りなく清らかな人格をつくり、正しい人生目標を確立し、釈尊の説く尊い智慧と慈悲の精神を以って、世界平和樹立・不戦・恒久の平和・誓願を世界へ向けて伝えたい」と言った真摯な内容が多く、いかにも若い力が育ち成長している実相を実感することができます。言葉も習慣も文化も異なる国での修行生活は、決して安易なものではない。彼らは自ら選んだ仏道をしっかりと歩んでいます。宇宙の壮大な命の営みの中で、生かされていることを実感しながら真の仏を目指しているのです。彼らはこれからも世界の国々であらゆる困難を乗り越え、やがて必ず花開かせ実を結び、また新たな種を蒔いていってくれるであろうと期待せずにはおられない。
  一方私は、仏教のことにまったく関わりないと思っている現代の若者にも、まず、このことを知ってほしいと願っているのです。
  またやがて世紀を移す頃の若者の姿。さらに姿や形や心の見えない時代だからこそ携帯電話やパソコンの代わりに『正法眼蔵』を手にしたり、道すがらお坊さんと出会い手を合わせ、思わずお布施をする若者。笑い話でも夢物語でもなく、私は真面目にそんな姿をイメージしてしまう。こんな世界が来ないとするのなら、これは私たち僧侶の責任です。
  私のイメージする日本の未来とこれからを担う若者の姿は、あたかも南方上座部仏教を信奉するタイ国の若者の姿に重なってきます。タイには度々訪問しています。昨年は、近年世界最高の仏教建造物といわれる “ブッダモントン”に参りました。仏紀2500年を記念する事業として1955年から建設が始まったタイ国家プロジェクト。この建物の中に『南伝大蔵経』という20世紀最大の仏教遺産。縦2メートル、横1.1メートルの板碑。その表裏、合わせて1418面、パーリ語の経・律・論の聖典が手彫りでびっしり刻みこまれています。これらはかつて私が若き日に修行した瞑想の寺ワットパクナムの青年僧たちが、精魂込め一字一字彫ったものです。そして遂に10年の日月を経て完成させたという偉業。彼らは、釈尊の真理・教えを残そうとしているのです。彼らを動かしているものは、功徳の心、現世で一所懸命徳を積もうとする清らかな心なのです。
  私は上座部仏教にも深く学び、さらに釈尊の教えに近づくことができました。小乗とか大乗とか、其処には何一つ垣根はありません。登る道は違えども、仏になるための頂点h真理hは一つ。 “宗祖を通じて、釈尊に還れ”を信仰哲学とし、これを宗教生活の原点として位置付け、必死に生きてまいりました。大乗にはない信仰エネルギーの凄まじさを目の当たりにするたびに、タイ国民一人ひとりの中に釈尊のいのちが息づいているのを実感することができるのです。
  道元も、「仏祖が正しく伝えられた国では、仏法僧をみな敬っている」と言っています。タイ国はまさに仏と自分は一体、それを究極の心のよりどころとし三宝に帰依している国の代表ともいえましょう。
  電子戦争とも云われるコンピュータ化時代、その情報化社会の最先端を走り続けている日本。戦後の廃墟の中から不屈の精神で学び励んで創り出し、見事奇跡の復興を成し遂げた日本。このパワーはたしかにすばらしいものがあります。しかし、成長・発展の裏には、必ずしも先祖が持っていた尊い智慧と慈悲の心を生かす方向に進んでおりません。逆にそれを否定し破壊してきたのではないかという現実と危惧。金と物を求め、貧困な精神に人間性を損い、タダがむしゃらに走り続け、人間としての大切な生き方の思想や目標、そして大事な心を見失ってきてしまったような気がします。
  道元が残してくれた、汲めども尽きぬ貴重な智慧の財産を持ちながら、それに振り向きもせず唯々突っ走ってきた日本。いったいこれは何を示し、何を物語っているのでしょうか。
  日本だけでなく世界に眼を向ければ、1990年代は、各地で起きた地域紛争、民族紛争、イデオロギー・宗教対立等々急増し、紛争とは関係のない幼い子どもまでが犠牲になっている現実。今日も絶えていない。その数200万。紛争後、武器・弾薬・地雷などで傷ついた子どもはすでに600万人。この瞬間にも、世界のどこかで紛争や戦争に巻き込まれ、尊いいのちを断たれる子どもたち。
  紛争を起こす憎悪の根底には、貧困と飢餓、貧富・経済格差があり、さらにそれが人種や宗教間の対立と憎しみを生み出す構造。地球資源に限度がある以上、根本的解決は困難。しかし解決に取り組まねば人類はやがて滅亡する。
  道元の教えは、すべての生きとし生けるものを救う智慧。この智慧を生かし地球上の争い・苦しみ・憎しみ・貧困を救えないものか。すべての垣根を越え、大宇宙の真理である教えに基づいて、途方もないことかもしれないが、少しでも解決の糸口をつかみたいと思っている。あらゆるものを包み込む大きな地球袋を作りたいのです。笑われるかもしれません。そんなことはどうでもいいのです。私は、「いま、ここ」に一所懸命だから、いいのです。
  これまで、仏教を学ぶ若者を支援し、また海外に留学僧を送り出し受け入れていることは、宇宙的規模でみれば無にも等しい微々たること。しかし、たとえ一ミリにも満たない種もやがて何時の日か芽をふき、年月がたてば大木となり森林となる。そして世界中がその種の子孫でうめつくされる日は必ずきます。いつの世にも “遅すぎる”ということはない。「念力よく巌も通す」という。私の信と行があれば必ず花は開きます。21世紀をはばたく真の平和の使者となる仏教徒たちに私の思いをバトンタッチできる日まで、仏さまから頂いたこの尊いいのちを運んでいきたい。
  今年はちょうどミレニアム(千年紀)、誓願するには区切りがいい。
  いずれの世界も、今の延長線上にある現実の世界。間もなくやってきます。地球人一人ひとりの心の中に大宇宙の真理、釈尊のいのちが息づいていて、そこには、子どもの笑顔といのちが消えることのない、そして悲劇のない明るい未来があるとかたく信じております。
  (了)

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